【想像を超えた世界】ドラクエの余白が生み出す無限の世界

朝目覚めて、寝室から自分の部屋へ向かう。
そして、朝一番に聴く曲は決まっている。ドラゴンクエストIIIの「王宮のロンド」。
「よくぞもどった!」
そんな王様の言葉を頭の中で思い浮かべながら、今日も勇者になったつもりで朝活開始。 ジャーナリングやドローイングをしていると、それらもまるで「冒険の書」を書いているように感じられてくる。
ドラクエと僕をつないだもの

思えば、僕はすぎやまこういち先生ともお会いすることができた。
そのとき、国家について考えるうえで、力強いメッセージをいただいたことは今でも記憶に残っている。
子どもの頃から聴いてきたドラゴンクエストの音楽。
その作曲者であるすぎやま先生と実際にお会いすることになるとは、当時の自分ならきっと想像もしなかっただろう。
御大が作曲された曲は、今でも僕の心を奮い立たせ、時には導いてくれる。
そして、もう一人忘れてはならないのが、キャラクターデザインを手がけた鳥山明さんだ。僕も大ファンだった。
ドラゴンクエストという作品は、音楽とキャラクター、そして物語が一体となって、僕たちをその世界へ連れていってくれた。勇者は旅立つ。
仲間と出会い、さまざまな出来事を経験し、ときには苦難を乗り越えながら、最後には魔王へと挑んでいく。今振り返れば、初期のドラゴンクエストは、とてもシンプルな表現で作られていた。
画面にあるのはドット絵とテキスト。そして、限られた音源から生まれる8bitの音楽。
画面に映っているものだけが、ドラゴンクエストの世界ではなかった。その先に何があるのか。この人物はどんなことを考えているのか。
自分の勇者は、これまでどんな冒険をしてきたのか。そんなことを想像しながら、僕たちは自分だけのドラゴンクエストを作り上げていたのだと思う。
そして、ここに僕が今回考えたい「余白」の面白さがある。
ここは記事の思想部分なので、**「余白とは何か」→「作品が広がる」→「人生にも余白が必要」→「冒険の書」**と、少しずつ現実へ戻していくのがいい。
余白があるから、世界は広がっていく

以前、ちいかわの魅力について考えたとき、僕はそこに「余白」があるのではないかと書いたことがある。 すべてを説明しない。すべてを描き切らない。
だからこそ、見る側が想像することができる。 そう考えると、レトロゲームにも同じことが言えるのではないだろうか。
今のゲームと比べれば、当時の画面はチープに見えるかもしれない。けれど、その限られた表現の中には、実はたくさんの「余白」があった。
画面に描かれていないものを、自分の頭の中で補っていく。短いテキストから登場人物の感情を想像し、ドット絵からその世界の風景を思い描く。
そうやってプレイヤー自身が物語に参加することで、画面の外側にまで世界が広がっていったのだと思う。
そして、その余白は一つの作品の中だけで終わらない。作品に触れた人が想像し、語り、描き、別の形で表現する。そこから新しい物語や作品が生まれていく。
たとえば、マリオシリーズがゲームの世界を飛び出し、映画という新しい形で大きな世界を見せてくれたのも、その一つの形なのかもしれない。
「余白」が生み出す「無限大」

作品の中に余白があるからこそ、そこにはまだ描かれていない可能性が残されている。そして、これは作品だけの話ではないように思う。
現実の世界でも、あまり答えを決めすぎないほうがいいのではないだろうか。
「こうならなければならない」 「人生はこうあるべきだ」
そうやって最初からすべてを決めてしまえば、確かに迷うことは少なくなる。けれど同時に、まだ見えていない可能性まで閉じてしまうかもしれない。
余白があるからこそ、想像できる。想像できるからこそ、そこに新しい可能性が生まれる。そして、その可能性は時に、自分が最初には思いもしなかった場所へ連れていってくれる。
そう考えると、人生もまた、一冊の「冒険の書」なのかもしれない。
最初から最後まで、すべてのページが書かれているわけではない。まだ白紙のページが残っている。
だからこそ、次に何が起こるのかは分からない。でも、分からないからこそ面白い。
朝、僕が「王宮のロンド」を聴きながらジャーナリングやドローイングをしているのも、そんな白紙のページに今日の一行を書き加えているようなものなのかもしれない。
人生という冒険は、まだ途中なのだ。

